Practice of normalization
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日本のノーマライゼーションと 2回目のオリンピック開催前後

はじめに

 日本ではノーマライゼーションと言う言葉が、バリアフリーに比べて一般的でないこの時代に私は生きている。2017年の現在、 日本ではじめてのオリンピック(1964年)を経験できたころから、意識が文化国の仲間入りをしたように思えた。
 道端や駅につば、たんをはかないようになったことは、この時の意識の変化が、その後を大きく世界中に清潔な日本人のイメージを定着させた。
 世界一、トイレが綺麗だと言われるまでになり、私たちの一部で、誇りさえ感じている一つになった。
 ところが、悪くなったものもある。福祉社会に弊害となっているのが役立たないものの不要論だ。特に国際交流でなければ育たない啓蒙思想なら、今回のオリンピック開催は重要だと言える。特に、障がい者が社会的に隔離されないで、一般の社会の中で疎外感を受けないきっかけを持てるようになるのだろうかと言うことだ。そして、二回目オリンピック開催に期待することは、明らかに欠如し始めた、人をいたわる啓蒙思想である。障がい者の大量殺害事件も起きた。
 オリンピック開催会場の付近でさえは、世界にアピールらしく報道をされるだろうか不安だ。今の時点で問題意識の持てない国民には、景気の先行きにしか頭が回りそうにない。世界から見識のあるマスコミが、日本で箕臼になり始めた人間性を指摘してくれることも期待している。今から、右ならへとことなかれ主義のエリート層が、国民抜きの華やかな接待にのみ流れるだろうと予想がついてしまう。
 開催前のゴタゴタで、金銭がらみに終始するオリンピックが恐ろしく、空振りになってしまわないか心配だ。近年、オリンピック関連の政治と言えば、スキャンダルに振り回されていることしか思い付かない。TPPでさえ長時間を費やした、ゴシップに聞こえてくるから不思議だ。アメリカ大統領が変わるだけで、無くなってしまったではないか。
 また、自分自身の生存についても、不安が現実味を感じさせている事実だ。とりあえずは、就職率も改善しているのに、貧困者の悲惨な現実が大きなうねりで聞こえている。
 優遇された正社員も人員を整理されているようで、景気が上向きなだけにサービス残業がきつく、脅しの経営体質に変わっていると言われる。
 それだけではなく、『保育園落ちた日本死ね!』過激な文章が、悲惨な日本の情けない実態を露見している。子供から墓場まで人間でいられるのかも疑わしく感じてる。ノーマライゼーションは、障がい者だけの問題では決してない、人権問題そのものを問いかけているのだ。

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2017/03/11
tp_breeder4公開。NEW
2017/03/10
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